ちょろちょろ見て歩き 6

 

「表現すること&許すこと」 / ばななさんの「虹」を読んで
「不作」の時期は土の中の種 / 9の漢字「九」の意味

 

「表現すること&許すこと」2003/06/13記

昔わたしは物凄いタカラヅカのファンだった。

特に平成元年の「ベルサイユのばら」公演の時が熱烈ファンの最高潮

の盛り上がりだった。

「ベルばら」公演の時は何度も兵庫県宝塚市の宝塚大劇場へ何度も

足を運ぶだけで飽き足らず東京・有楽町の東京宝塚劇場にまで行っ

たくらいだ。

毎週のように舞台を見に行き、そしてファンが読む雑誌「歌劇」誌の

ファン投稿欄『高声低声欄』にしょっちゅう投稿して、2,3ヶ月に一回

の割合で載った。

おおよその投稿数から掲載される原稿で、競争率は20倍くらい。

そういう競争率でしたが 載る時は書いてる時から わかったりする。

内側のもりあがりが どれくらいか?

それが係りの人の目にとまるかとまらないか、のバロメーターだった。

それは 大抵 思った通り だった。

そればかりか、ベルばらの脚本演出の植田紳爾先生に観劇するご

とに熱烈に 大感激したことを 手紙に書いて送った。

それは毎回便箋10枚は軽く超えた。

そればかりでなく宝塚ファン同好の士である友人にも手紙を書いて

送りまくりそれも便箋10枚は軽く超えた。

100%好みにあう作品はない。

どんなに大好きだなぁと思う作品でも ここが難だな、という所はあ

るものだ。

それは歌劇に出演する生徒さんにも同じ事が言える。

むずかしいなぁと思われる役どころが与えられても、生徒さんは

真摯に向き合って取り組まれる。

舞台では 飾り立てたお衣装やメイクアップをしていても不思議

な事に 舞台上の姿に 生徒さんの内側が反映される。

壁にぶちあたっている…とか、ちょっとやる気をなくしている…

とか凄く のりにのっている…とか、何か乗り越えたなぁ…とか。

一つの舞台。一つの役や踊りが難しくて こなしきれなかったと

してもそこから必ず何かを得て 次のステップ次の舞台に結び

ついている。

その 成果は ちゃんとあらわれている。

見る人が見ればそういうのはわかるのだ。

タカラヅカファンは アットホームで とても温かい。

根本的に 学校気質だから 「プロフェッショナル」な事をなしと

げながらも「成長」を見ていくような 所でもある。

そうして ある時 ふと思った。

『私は 人々が汗を流して作った脚本や舞台、演技、ダンスを

見るだけなんだなぁ』と。

『自分からは何も生み出さず

『客席に座って高いところから物を見るような視点で見ている』

そういう自分に気づいた。

ゼロ地点から物を生み出し作り上げていくという作業をせずに

のうのうと、やれ「なになには 良くなかった」だの「誰々のなに

は いまいち」だのと 評論家ぶっていたのだ。

もろに いっぱしの「評論家」ぶっていたのだ。

作り上げていく作業の 色々な事を何も知りはしないのに。

自分で踊らないのに。自分で演技をしないのに。

5歳から10歳までの私は表現者だった。

絵を描いて描いて。描いていた。

ある時から あきらめてしまい、描くのをやめた。それから表現

すること全般を止めてしまったのだ。

タカラヅカに燃えることで 表現する事に めざめかけていった。

「自分から生み出す」という事を始めるべきだと気づいた。

それから絵をぼちぼち描き出して 日本画も習ってみたりした。

創造するというのをやってわかったのだが、作ってみないとわか

らない事もある。

「うまく描けなかったとしても その時の自分で精一杯取り組んだ

絵なんだ。」という事を日本画を習っている時には考えられなか

った。

自分でこう描きたいと頭の中で思っているとおりに100%描けな

かったら (100%描けた時はないが)

自分で自分の胸を 鉄砲で撃ちまくっていた。

自分で 自分に 物凄いきびしかった。自分で自分を許せなかった。

タカラヅカをみていた時、その視点は 温かくもあったが、ある意味と

ても厳しい目でもあった。

そういう目で見る自分がとてもいやだったが、その厳しさを 自分に

向けたのだ。

好きな絵。のはず。でも描けば描くほどに 息もたえだえになった。

習っていた先生の 日本画に向ける視点も 厳しいものがあった。

スリーインワンを始めてその 厳しさは

土から出てきた芽を スパルタで ひっこぬくようなものだとわかった。

「好き」なものに程「厳しく」あたってしまう。

そこには親からすりこまれた 愛情表現から 受け取ったものなん

だ、と知った。

自分に対する厳しさの表現は 絶対にほしいものを手に入れさせな

い。ちょっとでも いい状態になっていても即座に「それは一過性の

ものなのだから 喜んではいけない」と言う風に言い聞かせてしまう。

自分に冷たい人は 他人にも同じように冷たい視線でしか見れない。

それを自覚していて 凄く嫌だった。

今は 「努力」の甲斐あって 大分自分に優しくできるようになった。

表現することを自分に許すには 不完全かもしれない、そのままの

ありのままの自分を許さないと表現できない。

完璧なものしか 許さなかった、その昔。

今は 「とりあえず 出そう!」 だ。

完璧なものなんて、この世にはないのだから。

内側から 世界へ 発信する。

表現し出したとたん、表現する相手は個人じゃなく、世界になった。

私は 世界へ 発信する。

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ばななさんの「虹」を読んで2003/06/20記

友人に借りていた吉本ばななさんの「虹」を読み終えました。

本当にいい本・いいお話・いい人間の物語でした。

読んでよかった。と本当に思いました。

読みながら うぅ と思うところも結構ありました。

*

タヒチの自然・海。

日本での生活・しがらみやややこしくさせている物事。

あっちとこっちを行ったり来たりしながら運ばれていく物語。

価値観の違う人とすごしている時の観察。

ばななさんの物語は 人のしぐさや話す口調や 何でもないしぐさに

人の思いや心を みつめていく その観察眼のするどさ深さが

物語を深く 濃く 描かせる。


そういう目で物事をみつめている、

そういう感覚が大切なんだなぁと思いました。

前に読んだばななさんの「アムリタ」ではこういう風な事が書いてあ

りました。

 自然の持っている力のとんでもない位の
 力、存在感は 万人にどうだぁと
無償に与えられている。

この「虹」では更にこう書いてありました。

 それを受け取る人受け取らない人がいる。
 何を受け取るか何を受け取らないかは
人それぞれなんだ

なるほどね………。

これは私に必要な言葉でしたよ。意味深い。ありがたい言葉でしたよ。

何を大切に思い 何にこだわり 何を嬉しく思うか、という尺度が

作品に現われるんだなぁとしみじみ思いました。

日本むかしばなしやメルヘンファンタジー海外小説の翻訳物によって

言語・文章の原型を作った私には描けない作品だなぁとうめきました。

私が書くものは私以外の人には書けないのだからそれでいいか!

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「不作」の時期は土の中の種2004/08/05記

私は子供の時 児童絵画教室というのに通っていました。

どう描いたらうまく描けるか、などという方法を教えるといっ

たことは一切ありませんでしたが、

ただ、おもいっきり、絵を描くだけでいい。という所でした。

5才から10才までそこに通い、絵を描いたり、時には工作の

ようなものもしたり。楽しかったです。

そして10才で絵画教室をやめた時、納得していなかったのです。

自分ではやめたくなかった。でももろもろの事情でやめさせられ

た感じ。

小学生3年で、そろそろ勉強も忙しくなるから、と親に言われたり

して。そこから なぁんとなく すねだしたんですね。

絵はいつでも自分の好きなように思いっきり描けばいいんだ。

誰がとめてる訳でもない。

でもなぜか 描けない。

描けないモードに はまってしまい、いつしか絵を描くことをあき

らめてしまった。

そして本を読むことに集中しだしました。

20歳頃お花を習って、生けた花を絵に描いて記録する時、

生けてる時よりも その後の絵を描く方が 楽しかった。

絵の方がやっぱり向いてるのかも、と思いながらもすぐには始め

られなかった。

何年間かうろうろして、すこしずつトライして、今、こうして絵本や

絵を描いている。

絵が描けなかった時期。

それは土の中の種の状態だったのかもしれない。と今思う。

自分の内側で色々な創作意欲を醗酵させていくのに これだけの

時間が必要だったのかもしれない。

本当のところ必要だったのかそうでないのかは わからないが、

その もがき・うろうろの体験が 物語に奥行きを与えるのかもし

れない。

絵に深みを与えるのかもしれない。

できないモードでウンウン言ってきたから、生み出せない・出来な

い人ができるようになっていく物語が書けるのかもしれない。

実際にできるように 自分で自分を勇気づけて 本気で実践して

きたから、何事も口先だけでは駄目で、ストレスがあろうがなか

ろうが、やる。

決めたらやる。て言う風に自分を育てていけた。まだこれからも

育てるだろう。

めばえたら 葉がつく。もっと伸びる。何枚も葉が出る。

もっと伸びる。枝が出る。幹が太くなる。根が張っていく。

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9の漢字「九」の意味2004/9/9記

今日はたまたま9*9の日ですね。

ちまたでは「救急」の日だとか。

先日 ふと「9」という数字について考えていて、

「九」が「丸」に似ていると気づきました。

「九」 たす 点「、」 = 「丸」

だな。

フム

頭に浮かんだイメージ。

9つのなにかがあって あと1個なにかがくわわると

 10になる訳です。

「九」 たす 点「、」 = 「丸」

自分の意志かもしれない。

0から順番に一個ずつ数字がふえて 一応9がひとそろい。

10になると 次の位に あがるわけです。

「九」に一つ点をくわえて「丸」=10になるんですねぇ。

それがどないしてん、て言われるかもしれんけど

何か面白いなぁ、て思いました。

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